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    2011年3月19日土曜日

    大丈夫って何が大丈夫なの?死んでも大丈夫ってこと?

    東日本大震災から1週間が過ぎ、ようやく地震は比較的落ち着いてきたように思う。
    阪神淡路大震災を越えてしまい、今までこの規模の震災はなかった。ここまでの事があっても誰もが大丈夫だと言い危機感を持たないのが恐ろしい。



    静岡に居ると、小学校に入るころには地震の心構えができる。毎年、やりすぎなくらい防災訓練をする。登下校時が帽子ではなくヘルメットなのは、いつ地震が起きても対応できるようにという配慮も含まれている(まぁ実際は防災訓練やりすぎで危機感が薄れる場合もあるが)。

    比較的多くの家庭は災害に対応するために様々な準備をしている。防災のための食料などの備蓄はある程度あり、万が一のために対応できる準備がある。屋内の家具は固定するのが一般的で、ガラスには飛散防止のフィルムを貼る。倒れたら困るようなガラス家具はそもそも購入を控える。家を建てる際にも、やりすぎと思える程の耐震性を持った家が人気だ。

    そういう積み重ねもあり、静岡県で起こった震度6強の地震では、「震度6強」という言葉からすると殆どと言って良いほど被害が無かった。怪我人は出ても死者は出なかった。こちらでは、放射性物質の飛来は恐ろしいものの、それ以外は特に混乱無く過ごすことができている。東北での惨状を見た後だったからだろうが、あわただしい東京のテレビスタジオでがっかりしたような顔をするアナウンサーの顔が印象的だった。

    名指しして批判するつもりはないが、余裕をかましてる東京の人はどうだっただろうか。各地のスーパーで買い占めが起こり、ガソリンも買い占めで枯渇している。何かあってからでは遅いということはこういう事なのだ。備蓄は平常時にしないと意味がない。非常時に買い占めるのでは遅すぎる。遅すぎるどころか、今の買い占めは本当に必要な人を見殺しにするということだ。

    電池などがオークションでは転売価格で暴騰している。需要と供給の市場原理とはいっても、最悪の人間のすること。日本人は秩序があるなんて海外に賞賛されているなんてのは実際は大嘘だ。静かに略奪をしている。強いものにぶら下がって弱い物は死ぬまで叩く人間が増えているのだ。

    見殺しにするため、危険な場所に居る人を大丈夫と言って見放す。原発の人災により被曝する人は大丈夫大丈夫と言われながら放置される。「ねえねえ、今どんな気持ち?」とNHKのアナウンサーが被災地に電話して訪ねる。窮状を聞き流し、「ありがとうございましたではがんばってください。」で電話は切れる。今そんなこと聞いても意味があるとは思えない。

    そういうのは人ごとだから言えるセリフであって、「放射性物質が漏れましたが大丈夫」っていうのは、「ちょっと被曝しても即死しねーよ(でも10年経ったら全身の癌や骨肉腫で死ぬかもね)」ということだ。それが大丈夫だろうか?大丈夫の閾値がどんどん酷い方向に向かっている。

    被曝の危険があるとされている屋内待機区域には誰も荷物を送ってくれないという。アマゾンがお急ぎ便でマンガを送ってくれるような平和な世界は一瞬でなくなってしまい、いきなりアフガニスタンにでも放り出されたような状態になってしまう。こうなってしまっては誰も助けには来ない。こういう状況になったら誰も頼れない。

    大丈夫なんて言葉はむやみに信じられない世の中になってしまったのだ。平常時に、できるだけの準備をしないといけない。今になって騒いでいる地域の人は、本当に大丈夫だろうか?
    今は少し待って、東北が落ち着いたら少しづつ備蓄をするといいだろう。

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